Blog of Kensuke Yamazaki. Ver.1.

 2008年の、初代のブログ。  自己紹介。 Hiroshima Univ, Msc. JOCV. PWRI. Public organizations. Private companies.

2008年11月

 話は変わります。

 途上国経験がまったくない素人の日本人100人強を、
 かたや雇用者側からの「無責任・放置・捨て駒」指導、かたや被雇用側としての「甘やかし・低義務・高給」待遇の、
 両極端が並列するめちゃくちゃ雇用で、
 
 内戦直後で人間関係がすさみまくっている中米の小国に、
 たいした準備訓練なく、意義もない、国税浪費な投入をすれば、

 同僚内部でトラブルが頻発したのも、当たり前である。
  
 (逆に、グアテマラ・フェチ、 ラテンアメリカ・フェチ、 サルサ・フェチな趣味の人たちには、天国であったろうが。)  

ーーー
 帰国後に、経済的な再雇用問題、日本社会への再適応問題にさらされれば、
 帰国後、かつての同僚との人間関係は、よくなるどころか、

 より困難でトラブルのリスクが高くなるのも、当たり前であった。

ーーー
 雇用が終われば、集団としては「解散」なのだから、

 「一期一会」で、
 雇用期間中のよい思い出だけを大切にして、
 
 各自が、相互によほど相性や利害が合う人とだけ、
 常識的に、適時に、双方にプラスになる利益が一致する間、一致する程度だけ、
 双方の意欲や意思が続く間だけ、軽く人付き合いすればよかったのである。

ーーー
 過去に、特殊環境・欠乏・ストレス下の集団内で、
 上司部下、同僚間など、
 個々人の間の、多少の不可抗力的な生理心理物理の損得勘定があっても、
 
 満員電車内で不可抗力・不注意で足を少し踏まれたからと、大喧嘩をして、相互に消耗するバカはいないように、

 相手側の、人生の何らかの事情、不注意、無自覚、経験不足からくる、「過失」による自身への損害には、
 まともに数学的に平等にやり返そうとしないのが、賢人の生き方である。

 (ストレスには、人に話したり、体を動かしたり、いろいろな別の発散方法がある。)

ーーー
 法律でも「故意」と「過失」は責任がかなり違ってくるし、

 「過失」に重い罰を科す(つまり仕返しをする)のは、
 酒飲み運転に轢かれて殺されてしまった、手足がなくなるなど一生残る大損害を受けた、そういう極端な場合のみである。

ーーー
 そういう常識の範囲の仕返しででも、
 
 対立の当事者は、
 自身の被害(加害)は、実際の1.2倍(0.8倍)、
 相手の加害(被害)は、実際の1.2倍(0.8倍)に、
 
 心理的に受け取るそうである。
  (佐藤優氏の執筆。)

ーーー
 自己愛の強い人や、一度似たことや違うことで大きな被害を受けた経験がある人は、蜂に2度目を刺されたように、過剰な免疫反応が発生して、

 2割増しどころか、2倍~100倍にまで、
 人や、時と場合によっては、
 心理的に被害加害を、ふくらましたり、減らしたりする。

ーーー
 基本的に、仕返しは、当事者本人がやると、加害行為が膨らんでいき、復讐の泥仕合になるので、

 公平な第三者が、世間常識で、判断して、裁くのが、社会のルールである。

ーーー
 昔、伍子渚という人が、すでに天寿で死んだ自身の敵の死骸を、墓から引きずり出してまでして鞭を打ったのは、
 
 親と兄をその敵にくだらない理由で殺され、自身もあと一歩で現実的に殺されかけたからであった。

 元同僚の行動が不快だったから、自身の行動を批判されたから、などという甘ったれた理由ではない。

ーーー
 自分も、かつて協力隊の元同僚のいくつかの欠点をグループ内で批判して、
 その後、携帯嫌がらせメールがしつこく来て嫌な思いをしたので、
 
 心理的な損得の話がわからないわけではない。

ーーー
 相手の行動が不快だったなら、直接その気持ちを言い返せばいいことで、
 名前を出さずに妨害行為や同調圧力的な心理的圧迫ばかりしてくる行為は、やはり陰険で陰湿である。
 
 北朝鮮のような国でのみ、自身の安全のために、便所の匿名落書きで、指導者を批判すればいいのである。

ーーー
 中国人に対するように、他の人に聞こえないように、相手の面子を気にして、その人だけにこっそり指摘しなけばいけないなら、

 憲法に書いてある「言論の自由」など、あってないようなものだと思う。


 常識とは、100人の母集団がいる時、過半数よりかなり上、最低でも80人以上、だいたい90人以上が、選択する行動である。

 世の中には、まれに、集団内の一部の人として、または同一人物でも時と場合によって、常識はずれの行動を取る人がいる。

 この常識はずれの行動が、結果的に、本人や周囲にとって、吉とでるか、凶とでるか、これも、時と場合、ケースバイケースである。

ーーー
 楽天の三木谷氏や、元ライブドアの堀江氏のように、
 意図して自身の意思や決断で、常識とは違う(多数派とは違う)行動をとる人もいる。
  
 (大手銀行を途中で辞めて、起業。 東大を途中で辞めて、起業。)

ーーー
 一方で、その人の能力やその時の状況、これによる、常識と同じ行動が取「れ」ない人もいる。
 (取「ら」ないのではなく、取「れ」ない、CAN NOT。)

 (原因には、その人自身の自因と、その人の責でない他因と、どちらのケースもあるし、混合ケースもある。
  また、非常事態の時においてや、非常事態の影響が残っている場合などのケースもある。 )

ーーー
 常識行動を自身の意思で「取らない」人は、周りを驚かすが、他人から見ると、まだはっきりしていてわかりやすい。
 
 しかし、能力やら状況やらで「取れない」人に対しては、
 そのことを、相手となる人や周囲が見抜けないと、
 
 本人以外の他人は、たしかに常識的なことを求めているのだが、
 結果的には現実的に実現不可能で「無理」なことを、相手に求めている、そういうことになる。

 俗に言えば「ないものねだり」ということになる。

ーーー 
 乱世のような時代には、
 三木谷氏や堀江氏のように、常識外のことをやる人が、うまくいけば成功し、極端な場合には、彼らのような人だけが生き残る。
 
 (堀江氏が失敗したのは、時代がそれほどの乱世でなかったこと、また、常識外を、三木谷氏以上に性急に、運用に隙が生まれるほど、「やりすぎた」ことがあるのかもしれない。
  もちろん、自分も詳しくはわからない。)

ーーー
 もちろん、先に述べたように、
 治世においても、常識的な行動が、個人として「できない」、または時と場合によっては「できない」、
 そういう人たちも、少数派としては、当然出てくる。
 
 「同一人物でも時と場合によっては」程度のことなら、
 誰にでも、大きな困難や試練の際には、起こりうる、経験する可能性すらある。

ーーー
 そういうときには、「ああ、この人は、現実的にできないんだな」と認識し、不愉快でも常識を相手に期待せず、

 そういう現実の上に立って、自身が損をしない決断をしなければならない。
 
 たいていは、一定の距離を置く、多少の目先の損をしても離れる、
 まだ話し合える関係なら、現実的に相手にとって無理不可能なことへの認知を確認したうえで、
 その上での、現実的に常識的な行動をとる、
 
 こういうことになる。

ーーーーー

 送別(そうべつ)

 王維(盛唐)

 下馬飲君酒 (うまよりおりて きみにさけをのましむ)
 問君何所之 (きみにとう なんのところぞゆく)
 君言不得意 (きみはいう いをえず)
 帰臥南山陲 (なんざんのほとりに きがせんと)
 但去莫復問 (ただされ またとうことなし)
 白雲無尽時 (はくうん つくるときなからん)

☆帰臥-隠遁すること。

馬からおりて君に酒を飲ませる。君に尋ねるが、君はどこへ行くのか。君は言う、志を得ないから、南山のほとりに隠遁するつもりだ、と。では、行きなさい、もうこれ以上聞くことは無い。(南山には)白雲が永遠に絶えることなく浮かんでいるだろう。

ーーー
 高校の時、これと似た詩で、「葡萄美酒夜光杯」という漢詩を習い、西域と別離を思わせるその詩が好きだった。

 グアテマラに行く前、尊敬していた先輩と酒の席で、その詩を暗唱して、気持ちを表現した。

 その先輩も、若くして、つい数年前に交通事故で亡くなってしまった。

ーーー
 北海道も、中米も、どこでも、空が青く、白雲が漂っていることは事実だ。

 大使館つきに、駐在武官という職種の方々がいます。

 国外政策に関わる省庁同士で、珍しく外務省と防衛省が連携している職種です。

 防衛省に関しては、専門外でわからないことも多いので、あれこれ自分が言うつもりはありません。

ーーー
 旧ソ連でも、ウクライナや、グルジア、古い話ではフィンランド(ポーランドはもう古すぎると思う)などは、

 軍事的にはロシアを牽制するために、駐在武官を置くのはいいのかもしれません。

ーーー
 私が、外務省JICA系統において、ウクライナやグルジアに派遣や受け入れは不要だといったのは、

 大使館正規職員以外での、専門調査員(研究者)や協力隊員(技術者)の派遣、および相手国からの、文官や内政技官の研修受け入れ、に関する話です。

ーーー
 武官として男ばかり送ると不便や不足もある場合は、外務省系の日本センターではなく、
 防衛省自体で女性自衛官を派遣したり、防衛省のほうで、自衛官の妻娘や知人女性を、武官補佐として、1国相手に1人2人任期中雇って、茶道や華道を学ばせてから同行派遣すればいいと思います。

 今の外務省系の日本センターは、はっきり申し上げて、
 日本文化交流と名のついた、ただの遊び雇用にしかなっていないと、判断いたします。

ーーー 
 話は変わりますが、

 大使館というのは、法的には、敷地内に日本政府の領土が成立するし、駐在商社員たちにとっては非常時の逃げ場にもなるので、
 できる限り多くの国にあったほうがいいと思います。

 アフリカや中南米でも、たとえ費用を抑えるためのボロ施設ででも、厳密には、たとえ小国にでも、あったほうが、いいと思います。

 ただ、旧ソ連の新興国家群が、ロシアを除けば、国がだいぶ小さくなった分、ソビエト時代と同じだけの大使館を世界中にばら撒けないように、
 大使館配置も、母国の国力を反映します。
 
 無理をすれば、国内の一般国民に、経済的な負担をかけるわけです。

ーーー
 私も事情を詳しく知るわけではありませんが、
 日本の場合、個人的には、できる限り多くの国に、1カ国当たりできる限り安い費用で、配置してほしいと思っています。

 (JICAジュニア専門員や協力隊員の派遣先としては「論外」で、日本国民の多数派のために、それらの財政浪費を認めるわけにはいかない、中米や東欧の小国群に対してすら、

 日本の大使館の配置と、大使館直々での外交活動には、私は別に反対しているわけではありません。)

ーーー

 (1、の続きです。)

ーーー
 JICA職員や日本人の国連職員で、あまりに英国、フランス、オランダの事例を意識する人がいたら、

 ぜひ英国籍やフランス国籍、オランダ国籍を取得して、そこの国の人になってください。

 英国国際開発庁か何かに就職して、好きなだけアフリカ援助の仕事を、英国民の税金を使って、やってください。

 アフリカの人たちを助けたい、というあなたの贅沢な願いも満たされるし、日本国民も、あなたの趣味のために過大な国税負担を背負わされずにすみます。

ーーー
 日本国の援助業務のために、外国の援助機関を参考にしたいなら、せめて同じ戦敗国の、ドイツやイタリアを参考にしてください。

 ドイツは高緯度の寒い国なので、北欧諸国のように途上国援助に熱心です。
 こういう国はもともとから堅実で計画的なので、日本と違い、自国の財政を国債の借金まみれになどしていません。

 外国に援助する十分な財政の余裕もあり、援助の背景として、政治上、通商上のしたたかな打算も十分計算した上で、やっています。

 (ドイツ+イタリア)÷2×0.7、ぐらいが、目安でしょう。
  
  (0.7は、欧州とアジアの格差係数)

ーーー
 国会議員の方々様、良質なマスコミ公益NGOの方々様は、

 「英国の援助機関はこうだから」、「フランスやオランダはこうだから」などと、
 事情がまったく違う国の事例を用いて言い訳をする、外務省JICAの官僚たち、ODAべったり官製マスコミなどの虚言に、
 騙されたり惑わされず、
 
 きちんと日本の国力や、日本の本当の豊かさに見合った、
 
 適切で現実的に可能な範囲の、援助政策を作成し、予算と人員も、適切な量に整理縮小してくださればと思います。

ーーー
 よろしくお願いいたします。

↑このページのトップヘ