Blog of Kensuke Yamazaki. Ver.1.

 2008年の、初代のブログ。  自己紹介。 Hiroshima Univ, Msc. JOCV. PWRI. Public organizations. Private companies.

タグ:政党、団体

 ブログを、NIFTYに移転しました。
 (08年12月~)

 Blog of Kensuke Yamazaki. Ver. 2.
 http://kensukejamor08.cocolog-nifty.com/blog/

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 他のドメインサイト(同じ内容)
 http://kensukejamor.jugem.jp/
 http://kensukejamor2013.at.webry.info/

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 Ver. 2. の方も、よろしくお願いいたします。
 
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 最初のHP。 (このブログの前の作品。)

 

 財団法人 九州環境管理協会 に、平川法義さんという方が働いています。

 私の先輩で、個人的にも、技術者勤労者としても、立派な方です。

 雇用を得た際のプロセスが、指導教官中越信和のつてであったのか、全くのコネなし客観採用だったのか、私は伝聞以外に証拠のある情報を持ち合わせていません。

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 地方の財団なので、別にたいした興味もありません。
 
 (先輩のことなので、万一コネであったとしても、優先の順番的に、私が文句を言う筋合いではありません。)

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 修士号取得時の際の雇用なので、以下の博士号の話とは、無縁のことでもあります。

 私個人は、今後も、平川さんに、財団で立派に働き続けてほしいと思っています。

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 この方は、2006年度末までに、ヒコビアという、広島県内の小さな植物同好会雑誌に2本、論文を載せました。

 それを、中越信和は、教授会をどうやりくりしたのか、広島大学国際協力研究科で、強引に博士号を与えたそうです。

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 私は、半年ほど前に、自主的に博士号を返上したほうがいいのではないか、と平川さんにお伝えしました。

 社会常識で遜色ない、
 十分なレベルの全国学会誌に、十分な数の査読論文を通した後、
 
 堂々と博士号を、
 論博でも圧縮1年課程ででも、申請したほうがいいのでは、と提案しました。

 残念ながら、ご返事はありませんでした。

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 国会議員の方々様、マスコミの方々様、公益NGOの方々様は、
 この学位授与に不正がなかったか、社会的に公正であったか、ぜひ調査をしてくださればと思います。

 もちろん、不正と認められた時に罰せられるのは、
 平川さんではなく、学位授与権を持っていた、中越信和と、関連教員、広島大学大学院国際協力研究科です。

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 社会正義の実現のため、ご協力をお願いいたします。

12月1日19時47分配信 時事通信

 政府の「行政支出総点検会議」(座長・茂木友三郎キッコーマン会長)は1日、首相官邸で会合を開き、行政の無駄な支出を削減すれば、2009年度の各省庁から公益法人への支出額は06年度比で3500億円(37%)削減できるとした提言をまとめ、麻生太郎首相に提出した。

 政府はこれを踏まえ、年末の09年度予算編成に向け作業を本格化させる。
 
 首相は同日夜、記者団に対し「37%削減が決められたのは成果として大きかった。各閣僚(には)、これに基づいて(省内に)指示するように話してある」と述べ、提言を尊重する考えを示した。
 
 同会議は、マッサージチェアなどの購入が判明した道路特定財源の不適切な支出や、運転手から金品を受け取る「居酒屋タクシー」問題などへの批判が高まったことを受け、今年7月に当時の福田康夫首相が設置を指示。「行政の無駄ゼロ」を目指し、支出の3割減を目標に有識者が検討を重ねてきた。 

 (引用終わり)

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 福田前首相がやってきていた業績のうちの、善行です。

 気づいていませんでした。

 以前、「何もしなかった」と書いてしまいましたが、自分の不勉強でした。
 失礼いたしました。

 手前味噌ですが、ホームページ上で、JICA予算は40%削減可能、と書いていたことが、当たりました。

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 一方で、たしか福田前首相が提示した、
 留学生30万人計画には、無理や負担があるので、これは廃止する必要があります。

 話は変わります。

 途上国経験がまったくない素人の日本人100人強を、
 かたや雇用者側からの「無責任・放置・捨て駒」指導、かたや被雇用側としての「甘やかし・低義務・高給」待遇の、
 両極端が並列するめちゃくちゃ雇用で、
 
 内戦直後で人間関係がすさみまくっている中米の小国に、
 たいした準備訓練なく、意義もない、国税浪費な投入をすれば、

 同僚内部でトラブルが頻発したのも、当たり前である。
  
 (逆に、グアテマラ・フェチ、 ラテンアメリカ・フェチ、 サルサ・フェチな趣味の人たちには、天国であったろうが。)  

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 帰国後に、経済的な再雇用問題、日本社会への再適応問題にさらされれば、
 帰国後、かつての同僚との人間関係は、よくなるどころか、

 より困難でトラブルのリスクが高くなるのも、当たり前であった。

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 雇用が終われば、集団としては「解散」なのだから、

 「一期一会」で、
 雇用期間中のよい思い出だけを大切にして、
 
 各自が、相互によほど相性や利害が合う人とだけ、
 常識的に、適時に、双方にプラスになる利益が一致する間、一致する程度だけ、
 双方の意欲や意思が続く間だけ、軽く人付き合いすればよかったのである。

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 過去に、特殊環境・欠乏・ストレス下の集団内で、
 上司部下、同僚間など、
 個々人の間の、多少の不可抗力的な生理心理物理の損得勘定があっても、
 
 満員電車内で不可抗力・不注意で足を少し踏まれたからと、大喧嘩をして、相互に消耗するバカはいないように、

 相手側の、人生の何らかの事情、不注意、無自覚、経験不足からくる、「過失」による自身への損害には、
 まともに数学的に平等にやり返そうとしないのが、賢人の生き方である。

 (ストレスには、人に話したり、体を動かしたり、いろいろな別の発散方法がある。)

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 法律でも「故意」と「過失」は責任がかなり違ってくるし、

 「過失」に重い罰を科す(つまり仕返しをする)のは、
 酒飲み運転に轢かれて殺されてしまった、手足がなくなるなど一生残る大損害を受けた、そういう極端な場合のみである。

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 そういう常識の範囲の仕返しででも、
 
 対立の当事者は、
 自身の被害(加害)は、実際の1.2倍(0.8倍)、
 相手の加害(被害)は、実際の1.2倍(0.8倍)に、
 
 心理的に受け取るそうである。
  (佐藤優氏の執筆。)

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 自己愛の強い人や、一度似たことや違うことで大きな被害を受けた経験がある人は、蜂に2度目を刺されたように、過剰な免疫反応が発生して、

 2割増しどころか、2倍~100倍にまで、
 人や、時と場合によっては、
 心理的に被害加害を、ふくらましたり、減らしたりする。

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 基本的に、仕返しは、当事者本人がやると、加害行為が膨らんでいき、復讐の泥仕合になるので、

 公平な第三者が、世間常識で、判断して、裁くのが、社会のルールである。

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 昔、伍子渚という人が、すでに天寿で死んだ自身の敵の死骸を、墓から引きずり出してまでして鞭を打ったのは、
 
 親と兄をその敵にくだらない理由で殺され、自身もあと一歩で現実的に殺されかけたからであった。

 元同僚の行動が不快だったから、自身の行動を批判されたから、などという甘ったれた理由ではない。

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 自分も、かつて協力隊の元同僚のいくつかの欠点をグループ内で批判して、
 その後、携帯嫌がらせメールがしつこく来て嫌な思いをしたので、
 
 心理的な損得の話がわからないわけではない。

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 相手の行動が不快だったなら、直接その気持ちを言い返せばいいことで、
 名前を出さずに妨害行為や同調圧力的な心理的圧迫ばかりしてくる行為は、やはり陰険で陰湿である。
 
 北朝鮮のような国でのみ、自身の安全のために、便所の匿名落書きで、指導者を批判すればいいのである。

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 中国人に対するように、他の人に聞こえないように、相手の面子を気にして、その人だけにこっそり指摘しなけばいけないなら、

 憲法に書いてある「言論の自由」など、あってないようなものだと思う。


 常識とは、100人の母集団がいる時、過半数よりかなり上、最低でも80人以上、だいたい90人以上が、選択する行動である。

 世の中には、まれに、集団内の一部の人として、または同一人物でも時と場合によって、常識はずれの行動を取る人がいる。

 この常識はずれの行動が、結果的に、本人や周囲にとって、吉とでるか、凶とでるか、これも、時と場合、ケースバイケースである。

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 楽天の三木谷氏や、元ライブドアの堀江氏のように、
 意図して自身の意思や決断で、常識とは違う(多数派とは違う)行動をとる人もいる。
  
 (大手銀行を途中で辞めて、起業。 東大を途中で辞めて、起業。)

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 一方で、その人の能力やその時の状況、これによる、常識と同じ行動が取「れ」ない人もいる。
 (取「ら」ないのではなく、取「れ」ない、CAN NOT。)

 (原因には、その人自身の自因と、その人の責でない他因と、どちらのケースもあるし、混合ケースもある。
  また、非常事態の時においてや、非常事態の影響が残っている場合などのケースもある。 )

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 常識行動を自身の意思で「取らない」人は、周りを驚かすが、他人から見ると、まだはっきりしていてわかりやすい。
 
 しかし、能力やら状況やらで「取れない」人に対しては、
 そのことを、相手となる人や周囲が見抜けないと、
 
 本人以外の他人は、たしかに常識的なことを求めているのだが、
 結果的には現実的に実現不可能で「無理」なことを、相手に求めている、そういうことになる。

 俗に言えば「ないものねだり」ということになる。

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 乱世のような時代には、
 三木谷氏や堀江氏のように、常識外のことをやる人が、うまくいけば成功し、極端な場合には、彼らのような人だけが生き残る。
 
 (堀江氏が失敗したのは、時代がそれほどの乱世でなかったこと、また、常識外を、三木谷氏以上に性急に、運用に隙が生まれるほど、「やりすぎた」ことがあるのかもしれない。
  もちろん、自分も詳しくはわからない。)

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 もちろん、先に述べたように、
 治世においても、常識的な行動が、個人として「できない」、または時と場合によっては「できない」、
 そういう人たちも、少数派としては、当然出てくる。
 
 「同一人物でも時と場合によっては」程度のことなら、
 誰にでも、大きな困難や試練の際には、起こりうる、経験する可能性すらある。

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 そういうときには、「ああ、この人は、現実的にできないんだな」と認識し、不愉快でも常識を相手に期待せず、

 そういう現実の上に立って、自身が損をしない決断をしなければならない。
 
 たいていは、一定の距離を置く、多少の目先の損をしても離れる、
 まだ話し合える関係なら、現実的に相手にとって無理不可能なことへの認知を確認したうえで、
 その上での、現実的に常識的な行動をとる、
 
 こういうことになる。

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